谷六の書斎カフェで太宰治を読む~「おさん」(『櫻桃』より)

谷町筋を歩いていた時、ふと目に入った文字に「えっ、書斎?」と思わず足を止めました。

谷町六丁目にある「書斎かふぇ じょうじあん」さんの看板です。

暑くてふらふらして一切の思考を拒否していた脳に、ばちん!とスイッチが入った瞬間でした。

何を隠そう、私の子どもの頃の夢は書斎をもつこと

江戸川乱歩の『怪人二十面相』シリーズが大好きだったのですが、そこに沢山出てくるんですよね、”書斎”という単語。

書斎の壁は本棚が占め、本がぎっしり詰まっている。
大きなデスクがあり、そこで実業家が書きものなどをしている。

本の虫だった私には、仕事場と隠れ家と基地を足して3で割ったような、夢のような空間に思えたのです。

ちなみにこちら、私の宝物。

谷町六丁目の書斎かふぇ「じょうじあん」

まさか大阪の筋を歩いていて「書斎」という文字が飛び込んでくるとは、思いもよりませんでした。

いったん通り過ぎそうになってから数歩戻り覗いてみると、カウンターには誰もおらず、静かそうな店内。

もう14時を回っているけれど、ランチはまだ提供しているよう…。

空腹でもあった私は、思い切って”書斎”の扉を開けてみたのでした。

店内は入口から想像できないほど広く、立派な本棚が並んだフロアの奥には、大人の音楽教室も開かれるピアノ室まで。

誰もいなかったので、お店の方の許可を得て店内の一部を撮影させていただきました。

名だたる作家の全集がそろっています。

赤と黒のソファ。

レコードのコレクションも相当数あり、ビンテージのオーディオセットも。

一席の持てる空間にゆとりがある。

音楽や書を心から楽しめるように、という計らいだと思われます。

中でも私が惹かれたのはこちらの棚。

太宰治コーナーですが、全集でも最近刷られた文庫でもなく、初版の装丁がずらり…!!

大学でレポートを書いた作品、舞台で演じたことのある作品、読んだことのない作品も。

ということで、”書斎”で食事やお茶をしながら太宰作品を読む、という新たな楽しみができました!

そんな中、書斎初日に手に取ったのはこちら。

昭和23年7月25日発行実業之日本社版『櫻桃』です。

太宰治「おさん」を読んで(『櫻桃』より)

太宰が愛人の一人・山崎富栄と玉川上水に入水したのは昭和23年の6月ですから、これは太宰が亡くなった翌月に出版された本なんですね。

今回は目次順に短編小説「おさん」を読んできました。

読むのは初めてです。

以下に感想を綴りますが、文学部らしいことは一切書きません(書けません、の間違いか)。

またネタバレありますので、これから読まれる方はご注意を。

「おさん」はある意味”自伝的”でありながら、結末部分だけは”予告”になっています。

どういうことかと言うと、家族がありながら愛人を作るところまでは、細かな設定も含めて執筆時の本人がモデル。

しかし物語の結末では、男は愛人との心中に成功します。

脱稿時は当然まだ太宰は生きていますから、それはその後自分がやろうとしていること。

それを残される妻目線で客観的に綴っているのが面白いと思います。

ところで太宰の小説は、読んでいるとたいがい恥ずかしくなってくる。

そういう仕組みになっています。

自意識とこれでもかというほど向き合い、自意識をこれでもかというほど書いているからです。

それにしても、愛人と心中するという死に方のダサさをこんなに客観視できているのに、実行できてしまうのが、色んな意味ですごいと思うのです。

…別に私個人が”ダサい”と言っているわけではなく、ご本人がそのように描いておられます。

「おさん」の主人公夫婦はほぼ太宰夫婦、舞台も当時と同じ、敗戦直後。

夫婦には子どももいるが夫は愛人を作る。それも妻と子が疎開していたほんの数ヵ月の間に。

妻は巧みに気付いていないふりをしながら、何とか日常を続けていこうとする。

ヒリヒリして、切ない。

でも鬱屈とした空気には嫌気がさしているし、冒頭から夫の死を予感しているのも分かる。

たましいの、抜けたひとのやうに、足音も無く玄関から出て行きます。

ほんの一瞬、夫婦は何かを取り戻したような気配を見せて、笑い合うシーンがある。

だがおそらく二人ともそれが取り繕われた上辺のものと解っている。

この調子で、軽く夫に甘へて、冗談を言い、ごまかしだって何だってかまわない、正しい態度で無くったってかまわない

とまで思うようになる妻がいじらしく、苦しい。

だがそんな矢先、夫は温泉に療養に行くと言い出し、妻に支度をさせて出掛けていき、諏訪湖で愛人と心中する。

そして三人の子どもを連れて遺体を引き取りに行く妻に、太宰はこう言わせている。

妊娠とか何とか、まあ、たったそれくらゐの事で、(中略)大騒ぎして、さうして死ぬなんて、私は夫をつくづく、だめな人だと思ひました。

地獄の恋などは、ご当人の苦しさも格別でせうが、だいいち、はためいわくです。

三人の子供を連れて、夫の死骸を引取りに諏訪へ行く汽車の中で、悲しみとか怒りとかいう思ひよりも、呆れかへった馬鹿々々しさに身悶えしました。

もしも私が太宰の妻で、夫が亡くなった後にこの短編小説を読んだなら、「なんだ、解っていたのね。」と言うと思う。

「まあ、解っていたのも解っているんだけどね。」と。

男のプライドとかカッコつけの滑稽さをここまで客観視していながらやめられない、つくづく太宰は難儀な人。

この小説には自己批判・自己否定の側面もあるのでしょうが、結局はこうして自分の最期を、ちゃんと自分が主人公の小説として完成させてから死ぬなんて、やっぱり自己愛の極みだなあとも思う。

それが太宰さんなのだろうけれども。

自殺を試みるのもこれで五回か六回目、そのうえ過去には心中相手の女性だけが亡くなったことも二度ありますから、せめて最期は自分の書いたように死ねて(心中が成功して)、そこだけは格好がついたのでは。

「おさん」を書いた後の心中にまで失敗していたら…と考えたら、ご本人もさぞゾッとすることでしょう。

ところで、女性の内面を書くのが下手だなあと思う男性作家は沢山います。

私の好きな作家の中にもそういう方は少なくありません。

が、太宰は女の心の奥底まで正確に捉えられている、稀有な男性作家(というか男性)だと思います。

だからおモテになったのでしょうが…。

自分が後に残して死ぬつもりの妻側の心情をこれだけ精緻に捉えられる男性作家(というか男性)は、太宰のほかにはないのではないでしょうか。